新シリーズ第16回 占領下の日本と調査のはじまり

統計学の初心者が引っ掛かりそうな罠や、普通の実務書にはあまり書かれていないコツをとりあげる新シリーズ。今回は、日本における「調査のはじまり」のお話です。

やさしい統計学講座 ~教えて朝野先生~

R&D技術顧問 朝野熙彦(学習院大学)

第16回 占領下の日本と調査のはじまり

Q.シリーズの第4回で「質問紙調査と統計学」というお話がありました。そこでデミングが戦後の日本に渡って世論調査の指導にあたった、という話がありましたが、なぜそういうことになったのでしょう。裏でどういう事情があったのですか。

A.(朝野先生)そこには占領下という特殊な事情があったのです。当時の政治状況と若干の偶然が日本の調査に影響を与えました。分かる範囲でお話ししましょう。

■ 戦後日本への世論調査の導入

 日本でも戦前から調査研究は実施されていましたが、ここでは戦後の日本からはじめましょう。1945年9月に日本を占領したGHQは、戦時中は日本の民主化と武装解除を2大ミッションに定めていました。しかし実際に進駐してみると、日本の産業の壊滅的な状況と国民の飢餓を目の当たりにして、産業復興という第3のミッションが生まれたのです(袖井1976)。

 さて占領政策にそってGHQが導入したのが世論調査でした。マッカーサーの司令部は、日本を民主化すべく日本政府に世論調査をするように示唆しました。それに応じて内閣に輿論調査課(後の国立世論調査所)ができたのが同年の11月ですから、日本政府の対応がいかに迅速だったかが分かります。日本に世論調査を普及させる担当者としてハーバート・パッシン中尉が1946年5月にCIE(Civil Information and Education)に赴任しました(表1)。

表1 調査草創期の出来事

年月 出来事 関係する人物 備考
1945年9月 日本占領 マッカーサー GHQが日比谷に本部
1945年11月 内閣情報局輿論調査課が発足 ダイク准将 情報局加藤俊一に示唆
1946年5月 民間情報教育部(CIE)
世論・社会調査班
ハーバート・パッシン中尉 CIEに転任
1946年6月 政府の世論調査を禁止 同上 GHQ覚書
1946年12月 世論調査顧問団 デミング GHQが招聘
1947年3月 世論調査協議会 内閣審議室 総理官邸

■ GHQの思惑がはずれる

 なぜ世論調査を導入すれば民主化が実現できるのかという論理は今日の我々からすれば理解しづらいでしょう。マッカーサーの認識では、日本が軍国主義の道を歩んだのは言論の自由が無かったからである。だから世論調査で国民の意見を聞けば民主国家になるはずだ、というものでした。彼は調査の専門家ではありませんから、リサーチを成り立たせる理論まで見識があったわけではありません。
 さっそく日本政府および報道機関はGHQの意向に従って調査を始めたのですが、実際に調査を企画すればGHQに都合の悪いテーマが出てくるのは当然です。たとえば山下奉文大将の軍事裁判の正当性についての有識者調査(資料1-8頁)、食糧メーデーに関連した調査企画は不都合でした(資料2)。アメリカの占領政策を批判するような調査は許されない。そこで「日本政府はまだ十分な能力を持っていないから当分世論調査はいっさいやらないように」という覚書を1946年6月に出したのです(資料1-131頁)。世論調査を促進する目的で赴任したパッシンの最初の仕事が調査を禁止することだったのは皮肉でした。彼は後にコロンビア大学の教授になった社会学者でしたので、心中で葛藤はあったことでしょう。
 言論の自由を標榜しながら言論を抑圧するのは矛盾しています。そこで日本の調査は「非科学的」だから禁止するという理屈を持ち出したのです。では何なら科学的かというと、それは無作為抽出による調査だというのです。それが分かっているなら始めからそう言えば?などと反論することが許されない時代だったのでしょう。そこで1946年12月に、そのアメリカ流の世論調査を教える指導者としてデミング(Deming)が来日することになったのです。
 実はここにも逸話があって、GHQが第一候補にしたのがアメリカの産業界に統計革命を起こしたシューハートだったというのです。シューハートはベル研究所で品質管理を創始した当人で、日本の製造業復興に役立つと期待されました。ところが、体調不良を理由にシューハートが招聘を断ったためにデミングが来日することになったのです。デミングは学生時代の夏休みにベル研究所と同系列のウエスタン・エレクトリック社の工場でアルバイトをしたのがきっかけでサンプリングを知ることになりました。デミングは農務省への就職後、シューハートからサンプリングを直接学ぶ機会を得ています。 このような歴史の偶然が、後に日本科学技術連盟でシューハート賞ではなくデミング賞を生むことになるのです。

■ 世論調査協議会

 1947年3月25日、26日に総理官邸で開かれた世論調査協議会がデミングらの指導の場になりました(資料1-129頁)。予算担当者が後の総理大臣になる佐藤栄作だったという記載があります(資料3-15頁)。もっとも佐藤栄作は3月25日、26日には出席していませんので、どういう立場で会に関与したのかは不確かです。
 この会の実態は対等な協議の場ではなく、報道各社の過去の調査を俎上にあげてそのサンプリング方式の誤りを徹底的に糾弾するものでした。
 このような占領下という特殊な政治状況の中で、「科学的な調査とは無作為抽出にもとづく調査だ」という刷り込み(imprinting)が日本の調査関係者に行われたものと推察されます。参加者がデミングの教えを真に受けすぎたことを次に述べます。

■ 後日談

 その後リサーチ関係者が調べてみると、アメリカでは多くの世論調査が無作為抽出を使っていない、つまりデミングが教えたことはアメリカ流ではなかったことに驚いたそうです(資料3-30頁)。今にして思えば総理官邸でのお叱りは何だったのか、ということになりましょう。
 またサンフランシスコ条約で日本が独立しGHQが解散すると、日本政府の調査への情熱は一気に冷めてしまいました。そういう国際情勢に左右される日本は情けない、などと卑下することはありません。実は、アメリカでも終戦とともに軍需が激減しました。その結果、アメリカの製造業は戦時生産局の指示で行ってきた統計的生産管理をやめてしまい、日本だけがせっせとQC活動に励むことになったのです。それが1980年のNBCテレビ番組「なぜ日本にできて、われわれにはできないのか」という日米逆転の衝撃に結び付くのです。差し迫った状況にならない限り統計学の価値が理解されないのは日米とも同じです。

【今回のまとめ】

  • GHQの強い後押しで戦後日本に世論調査が導入された。
  • 世論調査に無作為抽出を導入したのは言論統制のためだった。
  • 学生時代のアルバイトがデミングの人生を決めた。

参考文献

  • Deming, W.E.(1950) “Some Theory of Sampling”. John Wiley & Sons.
  • 袖井林二郎(1976)「マッカーサーの二千日」中公文庫
  • Salsburg,D.(2001) “The Lady Tasting Tea:How Statistics Revolutionized Science in the Twentieth Century”. W. H. Freeman .(訳書:サルツブルグ・ディヴィッド(2006)「統計学を拓いた異才たち」日本経済新聞社
資料
〔1〕日本世論調査史資料 (1986)日本世論調査協会
〔2〕時事通信解説 川島高峰氏
http://www.isc.meiji.ac.jp/~takane/ronbun/jiji-senryouki.html
〔3〕市場調査事始め (1990)日本マーケティング・リサーチ協会

2018年11月6日(仮)

《朝野煕彦教授 プロフィール》

1969年 千葉大学文理学部卒業後、マーケティング・リサーチの実務を経て、1980年埼玉大学大学院修了。筑波大学特別研究員、専修大学、東京都立大学教授、多摩大学および中央大学客員教授を歴任。学習院マネジメントスクール顧問。日本マーケティング学会監事。「入門多変量解析の実際」「ビジネスマンがはじめて学ぶベイズ統計学」「マーケティング・リサーチ プロになるための7つのヒント」「ビッグデータの使い方・活かし方」「アンケート調査入門」「マーケティング・サイエンスのトップランナーたち」など著書多数。
株式会社リサーチ・アンド・ディベロプメント技術顧問。

朝野煕彦